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アントン・ヘーシンクはなぜプロレスで成功しなかったか

アントン・ヘーシンク(1934年4月6日~2010年8月27日)。1964年の東京オリンピックにおいて、日本のお家芸だった柔道(無差別級)で、日本の絶対王者・神永昭夫に一本勝ちの完勝で金メダルを獲得したオランダ人の柔道家です。いまだに語り継がれるこの伝説の持ち主は、10年後に日本でプロレスに転向したものの成功できませんでした。

世界で初めて、外国人で柔道選手権で優勝した男、アントン・ヘーシンク(Antonius Johannes Geesink)については、『ヘーシンクを育てた男』(真神博著、文藝春秋)にも詳しく書かれています。

ヘーシンクを育てた男

ヘーシンクを育てた男

  • 作者: 真神 博
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2002/12
  • メディア: 単行本


タイトル通り、ヘーシンクが主役ではなく、柔道家・道上伯氏の話ですが、ヘーシンクとの出会いや、ヘーシンクの素質、トレーニングなどがヘーシンクについて知る縁となるでしょう。

文藝春秋社の柔道家についての書籍といえば、「格闘技の戦後史、力道山と木村政彦の真実」で書いたように、木村政彦が力道山に敗れた怨念が書かせたともいえる『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著)が上梓されていますが、アントン・ヘーシングも、金メダルをとってからちょうど10年後、日本でプロレスラーに転向しています。

60代以上の人や柔道関係者は、今も「日本の柔道」という歴史を変えた人物として見ているでしょう。

ただ、それより一世代下になると、プロレスラーとして冴えない試合しかできなかったアントン・ヘーシンクも見ているため、思いは複雑です。

なぜアントン・ヘーシンクはプロレスで成功できなかったのか。

木村政彦同様、柔道家だから、プロレスを(コバカにして)最後まで理解できなかったのではないか、と思われがちですが、私は必ずしもそうではないと思っています。

出典は失念したので書けませんが、アントン・ヘーシンクは、「プロレスはアート・オブ・スポーツだ」と言っています。これは重要な指摘です。

勝った、負けた、強い、弱いの話ばかりで、プロレスラーの価値の基本であるパフォーマーとしてのあり方という視点が、全く欠落しているとしか思えなかった木村政彦とその門下生とは、そこが根本的に違うのではないかと思います。

では、プロレスというものをわかってながらアントン・ヘーシンクは、なぜ成功できなかったのか。

それはたぶん、師匠がいなかったからだと思います。

アントン・ヘーシンクがプロレスに転向するにあたって、声をかけたのは、全日本プロレスの実質的な親会社である日本テレビであり、契約も日本テレビと行っています。

アントン・ヘーシンク
『週刊大衆』(6月23日号)でアントン・ヘーシンク契約当時を振り返る

つまり、アントン・ヘーシンクはプロレスの実績もないのに、プロレス団体に所属していないプロレスラーとしてスタートを切らざるを得なかったのです。

一応、ザ・ファンクスのところでプロレスを教わったことになっていますが、新弟子としての修行期間もなく、所属選手としても扱われない「ゲスト」のままでは、プロレスを覚えることは不可能です。

柔道の金メダリストが、ぶったり蹴ったりされて受け身をとるというふるまいには抵抗があるでしょう。

そのプライドを捨ててプロレスラーとして鍛え直すには、技のかけ方だけ教えればいいわけではなく、所属選手になって、道場で先輩に極められるような経験が必要ではないでしょうか。

そういう意味で、ジャイアント馬場も、「所属」ではなく「預かり」の大物の扱いにさぞ困ったことでしょう。

日本テレビとしては、視聴率が低迷していたからテコ入れするという「当面の人気」だけを考え、レスラーとしてのアントン・ヘーシンクについて、長期的な展望を抱いていたわけではなかったと思います。

ジャイアント馬場の意向か、日本テレビの意向かはわかりませんが、アントン・ヘーシンクには柔道ジャケットマッチをさせたこともありました。

柔道着を着て柔道技を使う試合です。

相手のレスラーは柔道素人なのですから、ヘーシンクが勝って当たり前。

ヘーシンクという商品に傷がつかないようにという配慮かもしれませんが、そんなものに勝ったところで、レスラーとしてのヘーシンクの価値が高まるわけではありません。

お客だって、そんなヘーシンクの試合など見たくもないでしょう。いつまでも柔道家のままで、プロレスラーになれないのだ、俺達はプロレスラーによるプロレスの試合を見に来ているのだと思うでしょう。

結局、これといった実績のないまま、アントン・ヘーシンクは日本テレビとの契約更新もなく帰国しました。

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大物だから師匠が必要だった


ヘーシンクと同じ失敗をした“レスラー”は、少なくとも日本にはあと2人います。

ひとりは、元横綱双羽黒の北尾光司です。

北尾光司も、プロレスデビューは個人事務所のマネージメントを受け、新日本プロレスの所属にはなりませんでした。

北尾光司は結局、元横綱のプライドをぶっ壊して道場でプロレスをいちから覚えさせてくれる師匠に出会うことはありませんでした。

もうひとりは、レスリングのモントリオール大会8位、幻のモスクワ・オリンピックにも出場が決まっていた谷津嘉章です。

谷津嘉章は新日本プロレスに所属していたのですが、なぜかアントニオ猪木に冷遇され、デビュー戦では血だらけにされ、その後もずっとアメリカに飛ばされたままでした。

その後、全日本プロレスのリングに上がり5年近く活躍するのですが、最近出版された『Gスピリッツ Vol.25』 (タツミムック)ではこんなふうに語っています。
新日本は新弟子の苦労もなく、アントニオ猪木さんが事業道楽でプロレスに専念していなかったし、全日本の在籍期間のほうが長かった。ジャイアント馬場さんとは腹を割って話し合ったこともあるから、師匠はアントニオ猪木さんではなくジャイアント馬場さんと思っている
その後、谷津嘉章は全日本プロレスの契約期間中に他団体に移籍して、全日本プロレスとは裁判になってしまうのですが、そのときもジャイアント馬場は賠償額を10分の1にまけてくれたと書かれています。

アントニオ猪木も、人間的に悪い人じゃないんでしょうけどねえ(笑)

それはともかく、谷津嘉章も最初から全日本プロレスに入っていたら、また違うプロレス人生があったかもしれないし、こうした話を知ると、アントン・ヘーシンクのプロレス人生はちょっとかわいそうだったな、と私は思うのです。

師匠がいるかどうかっていうのは、大切なことですね。

Gスピリッツ Vol.25 (タツミムック)

Gスピリッツ Vol.25 (タツミムック)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 辰巳出版
  • 発売日: 2012/09/26
  • メディア: ムック


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