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金城基泰、事故からカムバックした広島東洋カープのアンダースロー

金城基泰

金城基泰という投手のことを思い出しました。『日刊ゲンダイ』のスポーツ面で、元報知新聞記者でスポーツライターの駒沢悟氏が、広島東洋カープとともに送った記者生活を振り返る連載が話題になっています。懐かしい選手や監督、スタッフの名前が出てくるファンにはたまらない企画だと思いますが、いちばん印象に残る選手を誰か一人といわれたら、失明の危機で豪速球を失いながらもマウンドに戻った金城基泰投手を私は挙げたいと思います。

プロ野球記者歴50年半生記の取材手帳

駒沢悟氏は、「プロ野球記者歴50年半生記の取材手帳」という読み物を連載しています。

駒沢悟氏は報知新聞記者時代、一貫して広島東洋カープの担当です。

通常は現役上がりが解説者になる野球中継で、ラジオ日本の広島主催ゲームは駒沢悟氏がつとめていました。

広島の歴史の生き字引と言ってもいいほどです。

連載では、チームの創世記からこんにちに至るまでの様々な選手や出来事についてのエピソードが明かされてきました。

10月10日は津田恒実、翌11日は江夏豊移籍の真相、25日は衣笠祥雄、27日は高橋慶彦、31日は水谷実雄、11月1日は長谷川良平、3日は大野豊、10日は根本陸夫監督の関根潤三氏招聘の真相、14日は別当薫監督退団の真相、15日は山本浩二、17日は白石勝巳監督と王シフト……。

現在は、球団1年目の苦難の時代を回顧しています。

11月29日付のタイトルは「参入1年目は41勝96敗」。

首位に59ゲーム差の最下位でした。

しかも、当時下関にあった大洋球団との合併、新人選手の参加報酬遅配、連盟への加盟金未払いなどが表面化。現場の監督であった石本秀一氏が企業を駆けまわり、本拠地だった広島総合球場(現コカコーラウエスト野球場)には募金の樽が置かれ、県内の郡町村で4万人の後援会組織が結成されるなどしてしのいだと書かれています。

このように経済的にも戦力的にも弱小チームでしたが、記録や記憶に残る選手をずいぶん輩出しています。

その一人が金城基泰投手(1971年~1985年)でした。

金城基泰
Google検索画面より

1974年のシーズンは、アンダーハンドから浮き上がる豪速球で20勝15敗。207奪三振で最多勝に輝きました。

入学が内定していた法政大学に在籍していればまだ4年生のときに、リーグでもっとも勝ち、三振を取る投手に上り詰めていたのです。

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失明の危機から再びマウンドへ


もっとも、これだけなら、あえて「1人」として選ぶ根拠としては弱いかもしれません。

広島には最多勝獲得投手がほかにもいるし、生涯記録なら何倍も多い人や、野球殿堂入りした大物の元投手だっています。

問題はこの後です。

金城基泰投手は、シーズンオフに交通事故にあい、選手生命どころか日常生活にも支障をきたすような目の大怪我をします。

長くなりますが、『スカウト』(後藤正治著、講談社)という書籍から該当箇所を引用します。
顔がフロントガラスを突き破り、ガラスの破片が顔中に突き刺さった。とっさに車の座席に置いてあった赤ちゃんの紙おむつをつかんで顔を覆ったが、すぐに水をかぶったようにびしょびしょになった。赤いカーテンのようなものが目を覆い、それっきり何も見えなくなった。「救急車を……」という声を聞いたところで気が遠くなった……。
 別府から広島の東洋工業付属病院に運ばれ、絶対安静の状態が続いた。両眼が傷つき、交感性眼炎を併発した。一方の眼球を摘出するしかない……。病院にかけつけた木庭(注、広島のスカウト)は、そんな話を耳にした。顔中、包帯を巻かれてベッドに横たわる若者の姿は痛々しくてならなかった。もはや野球どころではない。眼に再び光が宿るかどうかの話なのだった。
 金城の右目の瞳の上部には、いまも白い線が横に走っている。手術跡である。「一か八か」という大手術だった。一週間、頭の下に砂の枕を敷き、暗闇のなかで過ごした。あくびをしても縫った眼球の組織が動く。じっと動かず、寝たっきりの時間を過ごす。この二週間の時間について、金城はこんな風に回想した。
「訊かれたこともあるんですが、そうなってみないとわからない気持ちといいますか、いまもうまくいえません……。夜が辛かったです。真っ暗だから昼も夜もないんですが、耳が音を拾っていくんです。消灯だな、人の声が止んだな、廊下の足音が消えたなって。夜になると、音のない世界にしーんと沈んでいく。それが一番苦しかったですね。耳はすごく敏感でね、看護婦さんもみんな声で覚えているんです。のちに顔を見たとき、ああこんな顔の人だったのかと思って戸惑ったのを覚えていますね」
目には特殊なコンタクトレンズをはめて退院。看護師には「多くは期待するな」と釘をさされます。

しかし、その後、金城基泰は古葉竹識監督の願いで、はやくもマウンドに復帰します。広島東洋カープが初優勝した年です。

残念ながら、左打者をのけぞらせるような浮き上がる豪速球はもう投げられませんでしたが、優勝を決めた試合の胴上げ投手は、その試合の先発で長く広島を支えてきた功労者の外木場義郎でもなく、その年の抑えの切り札だった宮本幸信でもなく、シーズン後半から合流した金城基泰でした。

古葉竹識監督のはからいだったのだと思います。

その日の中継で、前監督の別当薫氏が、「金城と水沼(四郎捕手)は相性が良いんですよ」と解説していたのも、古葉采配をバックアップする意図もあったのだと、当時の私は解釈しました。

そして事故の2年後、“野村再生工場”の野村克也監督に請われてで南海ホークスに移籍し10勝を記録。それ以降は故障でリリーフに転向して、2度セーブ王になりました。

同書には、「もし事故がなければどんな野球人生を送ったと思いますか」という質問に対する金城基泰の答えが書かれています。

事故の不幸という厳然たる事実と、一方でそれを受け入れて前向きに人生を進めたことの誇りという微妙な兼ね合いを言い表していて、大変印象に残りました。

「……さあ、どうでしょう。もっと勝ち星は上げたでしょうが、現役はもっと短いものだったようにも思いますね。生意気のまま終わったかもしれない。……もちろん、事故なんてなければ良かったわけだけど、だれが悪いんでもないんです。それに、ああいうことがあったから、なにかちらっとね、ちらっとだけど大事なことを知ったといいますか、そんな風に思うことはありますよね」

「なにかちらっとね、ちらっとだけど」という表現が、その胸中を思うとなんとも切ないですね。

広島東洋カープには、津田恒実という脳腫瘍に倒れた悲運の投手もいました。

不幸という意味では亡くなったことは最も不幸かもしれませんが、不幸によるハンデを背負ってカムバックした「辛さを克服して生きる」経験に惹かれるものがあり、冒頭の「1人」には金城基泰投手を私は挙げたいと思ったわけです。

駒沢悟氏の連載は月~金まで毎日掲載されているので、関心のある方はご覧ください。

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