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『1964年のジャイアント馬場』17回忌のジャイアント馬場を思い出す

『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健著、双葉社)。以前からご紹介しようと思っていた書籍です。やはりジャイアント馬場17回忌の今日がそれにはピッタリかと思います。2メートルを超す長身で巨人軍に入団した高い身体能力を持った馬場正平。日本プロレス入門後は、プロレスの本場・アメリカで世界三大タイトル連続挑戦するなど、日本人でたったひとりの「世界標準の男」だったことを証明するノンフィクションです。



同書は、『週刊大衆』に連載されていた同名の読み物を加筆修正してまとめたものです。

『週刊大衆』(2月17日号)より
『週刊大衆』(2014年2月17日号)より

1964年というのは、おそらくはジャイアント馬場が身体的にも全盛であった時期です。

力道山が刺殺されたのが1963年。

かりに生きていても、力道山自身は引退を考えており、後継者にはジャイアント馬場をすでに決めていたようです。

ジャイアント馬場はその当時、アメリカでトップレスラーでした。

しかし、力道山が亡くなったことで事情が変わります。

日本プロレスは力道山の死後、レスラーとしてもナンバー2だった豊登道春をトップにしますが、豊登とジャイアント馬場はプロレス観が違う上に、豊登がかわいがっていた若手には猪木寛至(アントニオ猪木)がいました。

そのため他の幹部は、力道山が亡くなって日本人スターがほしいのに、豊登に遠慮してジャイアント馬場の帰国を進言できずにいました。

ジャイアント馬場は、日本の事情がわからないまま、アメリカでマネジメントするグレート東郷から破格の契約金でアメリカに残ることを提示され、アメリカに残るのも悪くない、と考えていました。

ジャイアント馬場は、当時、NWA、WWWF、WWAというアメリカの3つのテリトリーで活躍していたので、日本のリングよりもたくさんのお金を稼げたのです。

ところが、急転直下帰国することにに。

広島東洋カープの黒田博樹投手ではありませんが、アメリカの大金を棒に振って、古巣に戻ることになりました。

どうしてか。

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日本プロレスの興行にかかわる“そのスジ”から、「馬場を戻せ」と話があり、ジャイアント馬場本人ともその交渉が行われたことを同書は示唆しています。

かくしてジャイアント馬場は、日本プロレスのリングに上がります。

『週刊実話』(2月13日号)より
『週刊実話』(2014年2月13日号)より

日本のプロレス界は年功序列の「格」があり、一応、エースは豊登ということになっていましたが、プロレスラーとしての魅力はジャイアント馬場とは比べ物になりませんでした。

原康史『劇録馬場と猪木1』140ページより
原康史『劇録馬場と猪木1』140ページより

2メートルを超える巨体が宙を舞うダイナミックなプロレス


『東京スポーツ』(2015年1月30日付)には、ジャイアント馬場が32文ドロップキックを初めて日本で炸裂させた日の写真を掲載しています。

『東京スポーツ』(2015年1月30日付)

1965年3月26日。場所は当時渋谷にあったリキパレス。相手はドン・ダフィ。

2メートルを超える大男が跳んだことで、観客はさぞ驚いたことでしょう。

記事ではこう絶賛されています。

「跳躍力や手足のバランスなどすべてにおいて満点の一撃。209センチ、145キロの巨体が宙を舞う姿は、もはや芸術品と言ってもいい」

「新日本プロレスの元IWGP王者オカダ・カズチカが打点の高いドロップキックを使っているが、やはり209センチの馬場の一撃には及ばない。『金が取れる』ドロップキックの元祖である」

ミスター高橋という人の書籍によると、アントニオ猪木はドロップキックが苦手だったそうですが、瞬発力はあっても尻餅をつくように落ちるところにコンプレックスがあったのかもしれません。

当時日本テレビで実況を担当していた清水一郎アナは、ジャイアント馬場の32文ドロップキックを「大型ロケット弾道弾」「アポロキック」と名づけていました。

大男が、誰よりも鮮やかに自らの身体を“飛び道具”に使うダイナミックなプロレス。

その明るく楽しく激しいファイトスタイルは、右肩上がりの高度経済成長時代にマッチしたものだったと思います。

昔は「巨人、大鵬、玉子焼き」なんていいましたが、なぜ「玉子焼き」なのか。なぜ「ジャイアント馬場」ではないのか、と私は思ってしました、

ジャイアント馬場の光も影もあますところなく描く


『1964年のジャイアント馬場』に話を戻すと、同書はそれ以降、1999年にジャイアント馬場が亡くなるまでを追っています。

日本プロレスをやめて全日本プロレスを旗揚げ。アントニオ猪木はその1年前に新日本プロレスを設立しており、両団体のせめぎあいが80年代は続きますが、このへんは、「そこまで書くか」と思えるほど社長兼レスラーのジャイアント馬場に厳しい評価をくだしています。

しかし、四天王プロレスが年7回の武道館興行を満員にした90年代は、マスコミなど関係者の声に耳を傾ける頭の良さがあってこそと書いています。

要するに、悪いところには目をつぶるのではなく、いいところも悪いところも、いい時も悪い時も隠さずに書いているのです。

そして亡くなる直前の件は、もう17回忌だというのに、読んでいて思わず目頭が熱くなる箇所もあります。

おそらくジャイアント馬場ファンなら読まれているとは思いますが、晩年しか知らず、「ジャイアント馬場の何がすごかったの?」という方々にも読んでいただきたい力作です。

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